頭が良いとは?

「不勉強が身に沁みる」(長山靖生 光文社新書)という本の中に

【努力が苦痛でないというのは、頭の良さの証明である】という書き込みがありました。深い意味を込めて書いたわけではないようですが、とても印象に残りました。

「努力」を苦も無くしっかりする生徒(人)は、頭が良く、「努力」を苦に思う生徒(人)は「頭が良くない」ということになるのでしょうか?

   大人になって職業に就けば、「努力」を苦痛に思う人は少ないはずです。職場での「努力」には明確な動機と理由があるからです。中学生や高校生のころは、「努力」をする理由が明確ではありません。「なんで勉強しないといけないの?」の疑問に対する正解はありません。「勉強していい大学に入って、大きな会社に就職して生活を安定させる」ために「勉強しなさい」という親もいるはずです。

「努力が苦痛でない」という側面の一つに強迫観念のようなものがあるのではないかと思います。

 走り続けなければ化け物に追いつかれて食われてしまうような恐怖感。努力しなければ自分の存在が消失してしまうような焦燥感。それらから逃れるための努力。ただし、その努力を続けているうちに、言い知れぬ喜びと快感を努力そのものに感じることもあるかもしれません。努力が習慣になり、あまり苦を感じない生徒もいると思います。

塾教師を40年以上経験し、多くの学年トップの生徒に接してきました。学年トップの彼ら、彼女らには上記のような思い(強迫観念)が大なり小なりあったような気がします。

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思い出した生徒が一人います。

F君。

上記のような「強迫観念」の様なものは全く感じませんでした。

よく言えば真面目、悪く言えば馬鹿正直な少年でした。

新中1のとき、お帰り問題で、「正解だと思う場合はパー、不正解の場合はグーを上げること」と言って問題を出します。

〇パー、✖グーと板書もします。F君はノートに何かを書き始めました。いったい何を書いているのかと思って見に行くと、「正解はパー、不正解はグー」と丁寧な字でノートに書いてありました。

F君は二宮中でしたが、中1~中3まで、定期テストは常に学年で一番でした。

高校選択の時、本人は「どこでもいい」ようなことを言ったそうですが、お母さんは「成績から考えて千葉高が妥当」と判断し、受験しました。併願の渋谷幕張も合格し、千葉高に進学。

F君にとって努力は苦でもなんでもなく、当たり前のことだったのかもしれません。